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2009年9月 アーカイブ

2009年9月14日

日本の民族問題

文明の進化が進むにつれ、次第にマイノリティに対する排除が強まっていく。マイノリティに関する研究の多くは、人種的なな偏見や差別に焦点を当てるものが多かった。しかし、差別や偏見の対象は、人種的なマイノリティに限られたものではなく、宗教的マイノリティであったり、女性であったり、障害者や病気の人たちであったりする。日本におけるハンセン病患者に対する処遇が人権侵害であり、政府自らの手で差別と偏見を作り出したのは周知の事実である。

異文化との最初の交わり
16世紀、17世紀の日本では日常人々が外国人に接することは皆無であった。それでも、わずかに海外貿易をしている港市や都に住む貴族、武士、商人、町人、一般の民衆はポルトガル人に接する機会があった。特に大村純忠(肥前大村)、大友義鎮(宗麟,豊後)、高山長房(右近,摂津)を初めとするキリシタン大名の領地に住む住民は、イエズス会の宣教師と接触したものも少なくない。宣教師たちが日本を布教の地として活動した安土桃山時代は、日本人がもっとも頻繁に西洋の人々、とりわけポルトガル人に接した最初の時期であった。織田信長がキリスト教を厚く保護し、布教活動を援助したことは、ポルトガル人の日本への渡来と居住を可能にした最大の要因であった。イエズス会の宣教師が、毎年日本における布教活動の状況を克明に記してインドのゴアや本国の敦会本部に送った「日本報告」こそ、最初期の日本人と西洋人の出会いを生き生きと描写している。当時日本人にとって、西洋人はきわめて珍しく、好奇の的であった。硬らが同伴していた黒人や「肌の黒い人」もまた日本人にとっては初めて見る対象だった。 西欧諸国の大航海と植民地活動を背景にしたアジアの進出が、東アジアでももっとも遠い東端の未知の島国日本とヨーロッパ諸国との出会いを生んだのである。西洋との遭遇は、戦に明け暮れていた戦国武将にとっては、貿易上の関心を呼び起こすことはあっても、彼らの日本中心の世界観を変え、全国統一を目指すその野望を乱すほど重要な政治上の問題になることはなかった。

西洋人に対する意識
「毎夕外国奉行から合い言葉が来る。ソレを知らんものは鏡殺されてもしかたがないですから、異人の立ち番の所を通ると、異人は銃を横え、鈍(のろま)な日本語で『だれだア』という。ソコで合言葉をいうのです。異人はその当時毛唐人といい、夷秋といい、禽獣祝していたのに、ソレを警固したり、後生大事に尊重するのだから、志ある武士は憤慨しない訳のものでないんですが、私の藩にも伊藤軍兵衛というのがあって、僚慨家でした」(篠田鉱造,1996)。少なからぬ人々が西洋人は異人であり、毛唐として蔑祝し、見下していた。「陛下行幸のみぎりなど、御送迎に出かけたことがあるO途中外国人が馬車で、コノ行列の間を縫ったから、承知しない。『この毛唐奴(め)が』と、その馬車を大勢で鼻伏させてしまった」(篠田鉱造,1996)。明治10年代のことである。明治21年7月15日、福島県の会津磐梯山が噴火した(新聞集成明治編年史,第7巻)。噴火のすさまじさを生々しく伝える当時の新聞は、驚天動地、磐梯山の噴火などだれも想像したこともなく、毛唐人のたわごとであったと書いている。 これが西洋人観の底最にある「異人」・「毛唐」意識であるとされる。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

日本の民族問題について今日は考えてみました。

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